有名度
前頭遠流志別石神社
おるしわけいしじんじゃ
宮城県登米市石越町北郷字中沢81
宮城県登米市石越町北郷字中沢81

かんたんご利益
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(1柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
遠流志別石神社は宮城県登米市に鎮座する神社。御祭神は倭建命の1柱をまつる。
社格は式内社であり、旧郷社。
社伝では、遠流志別石神社の創祀は景行天皇40年にさかのぼる。倭建命が東征へ向かう途中に伊勢神宮へ参拝した際、倭媛命から明玉を授けられた。倭建命は東国へ進み、当地に着陣すると明玉を埋め、神祠を建てて祀ったと伝えられている。
埋められた明玉は後に霊石となり、毎年小石を生んだという伝承が残る。里人はこの石を石神、明神石と称して祀り、大きな石から小石がこぼれ落ちることから「子持ち石」とも呼んだ。御神体とされるのは富崎地域に産する礫岩で、「大石が小石を産む」と伝えられ、安産や豊作を願う信仰を集めた。子持ち石にちなみ、当地は「石小石の里」と呼ばれ、「石小石」が後に「石越」の地名になったとする説も伝えられている。
和銅2年(709)、鎮東将軍の巨勢麻呂が蝦夷征討へ向かった際、近江国栗太郡の建部氏が従軍して当地へ来たと伝えられる。建部氏は遠流志別石神社を再興して神主となり、その後の祭祀に携わった。
延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には、陸奥国栗原郡の神社として遠流志別石神社の名が記載された。栗原郡に記載された7座のうちの一社に数えられる。
文治5年(1189)、奥州藤原氏の藤原泰衡が滅亡した頃には社域が荒廃した。その後、社殿は失われ、石神明神として祀られたと伝えられている。
安永年間(1772~1781)、仙台藩の田辺希元が調査を行い、当地の石神明神を『延喜式』神名帳に記載された遠流志別石神社とした。天明6年(1786)には肝入の小野寺新右衛門が社殿を再興した。
天保11年(1840)3月には正1位の神階を授けられた。明治6年(1873)6月に郷社へ列し、明治40年(1907)3月には神饌幣帛料供進社に指定された。
境内には昭和10年(1935)建立の石造鳥居があり、天保10年(1839)の年紀を持つ石灯籠も残されている。例祭は10月9日に行われる。
社格は式内社であり、旧郷社。
社伝では、遠流志別石神社の創祀は景行天皇40年にさかのぼる。倭建命が東征へ向かう途中に伊勢神宮へ参拝した際、倭媛命から明玉を授けられた。倭建命は東国へ進み、当地に着陣すると明玉を埋め、神祠を建てて祀ったと伝えられている。
埋められた明玉は後に霊石となり、毎年小石を生んだという伝承が残る。里人はこの石を石神、明神石と称して祀り、大きな石から小石がこぼれ落ちることから「子持ち石」とも呼んだ。御神体とされるのは富崎地域に産する礫岩で、「大石が小石を産む」と伝えられ、安産や豊作を願う信仰を集めた。子持ち石にちなみ、当地は「石小石の里」と呼ばれ、「石小石」が後に「石越」の地名になったとする説も伝えられている。
和銅2年(709)、鎮東将軍の巨勢麻呂が蝦夷征討へ向かった際、近江国栗太郡の建部氏が従軍して当地へ来たと伝えられる。建部氏は遠流志別石神社を再興して神主となり、その後の祭祀に携わった。
延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には、陸奥国栗原郡の神社として遠流志別石神社の名が記載された。栗原郡に記載された7座のうちの一社に数えられる。
文治5年(1189)、奥州藤原氏の藤原泰衡が滅亡した頃には社域が荒廃した。その後、社殿は失われ、石神明神として祀られたと伝えられている。
安永年間(1772~1781)、仙台藩の田辺希元が調査を行い、当地の石神明神を『延喜式』神名帳に記載された遠流志別石神社とした。天明6年(1786)には肝入の小野寺新右衛門が社殿を再興した。
天保11年(1840)3月には正1位の神階を授けられた。明治6年(1873)6月に郷社へ列し、明治40年(1907)3月には神饌幣帛料供進社に指定された。
境内には昭和10年(1935)建立の石造鳥居があり、天保10年(1839)の年紀を持つ石灯籠も残されている。例祭は10月9日に行われる。
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出典
宮城県神社庁
https://miyagi-jinjacho.or.jp/
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