有名度
十両一皇子宮
いちおうじのみや
宮城県石巻市湊字大門崎山2
宮城県石巻市湊字大門崎山2

かんたんご利益
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(1柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
一皇子宮は宮城県石巻市に鎮座する神社。御祭神は護良親王の1柱をまつる。
境内には、鎌倉時代にまで遡る石塔婆が残されている。弘安6年(1283)7月14日の紀年銘を持つ阿弥陀種子石塔婆は粘板岩製で、蓮座上の月輪内に阿弥陀如来を表す種子「キリーク」が刻まれ、碑文には平朝臣胤常の名が見える。このほかにも、阿弥陀如来と胎蔵界大日如来の種子を刻んだ、鎌倉時代の造立と推定される石塔婆が伝わる。
社伝や口碑では、一皇子宮の由緒を護良親王に結び付けている。建武2年(1335)、北条時行が鎌倉へ攻め入った際、足利直義は幽閉されていた護良親王の殺害を淵辺伊賀守義博に命じた。しかし義博は親王を殺害せず、ひそかに奥州へ逃したと伝えられる。道中で暴風に見舞われながらも石巻へたどり着いた親王は、湊に仮御所を構えて11年間を過ごし、正平元年(1346)9月、38歳で薨去したという。一皇子宮は、この護良親王の陵墓にあたると伝承されている。
周辺には御所入・御隠里・殿原小路・大門崎・淵辺屋敷など、親王の伝承にちなむ地名が残る。境内には吉野先帝御菩提碑が建てられ、親王に供奉した日野・日下・比羅塚・福原・遠山・志摩・岡本・淵辺の8人は「八臣子」と称されている。その霊をまつる朝臣宮のほか、「北面の臣の碑」と呼ばれる板碑も伝えられている。
江戸時代には仙台藩主からも崇敬を受け、享保13年(1728)に伊達吉村が参拝した。のちには伊達斉義、伊達慶邦も参拝している。明治15年(1882)には有栖川宮熾仁親王が参拝した。例祭は毎年4月20日に行われる。
境内には、鎌倉時代にまで遡る石塔婆が残されている。弘安6年(1283)7月14日の紀年銘を持つ阿弥陀種子石塔婆は粘板岩製で、蓮座上の月輪内に阿弥陀如来を表す種子「キリーク」が刻まれ、碑文には平朝臣胤常の名が見える。このほかにも、阿弥陀如来と胎蔵界大日如来の種子を刻んだ、鎌倉時代の造立と推定される石塔婆が伝わる。
社伝や口碑では、一皇子宮の由緒を護良親王に結び付けている。建武2年(1335)、北条時行が鎌倉へ攻め入った際、足利直義は幽閉されていた護良親王の殺害を淵辺伊賀守義博に命じた。しかし義博は親王を殺害せず、ひそかに奥州へ逃したと伝えられる。道中で暴風に見舞われながらも石巻へたどり着いた親王は、湊に仮御所を構えて11年間を過ごし、正平元年(1346)9月、38歳で薨去したという。一皇子宮は、この護良親王の陵墓にあたると伝承されている。
周辺には御所入・御隠里・殿原小路・大門崎・淵辺屋敷など、親王の伝承にちなむ地名が残る。境内には吉野先帝御菩提碑が建てられ、親王に供奉した日野・日下・比羅塚・福原・遠山・志摩・岡本・淵辺の8人は「八臣子」と称されている。その霊をまつる朝臣宮のほか、「北面の臣の碑」と呼ばれる板碑も伝えられている。
江戸時代には仙台藩主からも崇敬を受け、享保13年(1728)に伊達吉村が参拝した。のちには伊達斉義、伊達慶邦も参拝している。明治15年(1882)には有栖川宮熾仁親王が参拝した。例祭は毎年4月20日に行われる。
スポンサーリンク
神社詳細
摂末社・境内社
情報募集
例祭
情報募集
文化財
情報募集
建築
情報募集
神紋
情報募集
出典
宮城県神社庁
https://miyagi-jinjacho.or.jp/
https://miyagi-jinjacho.or.jp/
