橘逸勢
たちばなのはやなり
- 歴史的人物
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祭神ランキング202位
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- 書家
平安 [782年~842年]
橘逸勢とは?
橘逸勢(?-842)は平安時代初期の官人・書家。橘入居の子で、奈良時代の政治家・橘奈良麻呂の孫にあたる。後世には嵯峨天皇、空海とともに三筆の一人に数えられ、日本を代表する能書家として知られるようになった。
延暦23年(804)、遣唐使の留学生として唐へ渡った。この遣唐使には空海や最澄らも参加している。逸勢は唐で学問を修めたが、のちに語学の難しさなどから琴と書を学んだと伝えられている。唐の文学者・柳宗元に書を学んだ、優れた才能から唐人に「橘秀才」と呼ばれたとも伝えられるが、こうした逸話には後世に形成された伝承も含まれている。
帰国後は従五位下に叙され、但馬権守などの官職を歴任した。一方で病気を理由に出仕を辞退するなど、官人として華々しい経歴を重ねた人物ではなかった。しかし書の名声は後世になるほど高まり、嵯峨天皇、空海とともに三筆と称されるようになった。現在、逸勢の真筆と確実に認められる作品は確認されていないものの、平安時代を代表する能書家として長く尊崇されてきた。
承和9年(842)、嵯峨上皇が崩御すると皇位継承をめぐる政変である承和の変が起こった。逸勢は皇太子・恒貞親王を東国へ移し、擁立しようと企てたとの嫌疑を受けて捕らえられた。逸勢は謀反への関与を否認したが認められず、姓を非人《ひにん》と改められたうえで伊豆国への流罪となった。実際に逸勢が謀反を計画していたのかについては明らかではなく、承和の変そのものも皇太子廃立を伴った政治事件として捉えられている。
逸勢は伊豆へ護送される途中、遠江国で病により亡くなった。その後、嘉祥3年(850)に罪を赦されて正五位下を追贈され、さらに仁寿3年(853)には従四位下が贈られた。こうして名誉回復が進められる一方、非業の死を遂げた逸勢の霊は御霊として恐れられるようになった。
貞観5年(863)、京都の神泉苑で疫病や災害を鎮めるため御霊会が行われ、逸勢は崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、藤原吉子、文室宮田麻呂とともに六所御霊の一柱として祀られた。政治的な争いによって非業の死を遂げ、その後に名誉を回復された逸勢は、平安時代に発達した御霊信仰を代表する人物の一人となった。
橘逸勢は京都市の上御霊神社、下御霊神社などで御霊として祀られている。また静岡県浜松市の橘神社にも祀られ、伊豆へ流される父を追った娘が、途中で亡くなった逸勢の亡骸を葬り供養したという伝承が残されている。三筆の一人としての信仰から書道・学問に関わる神としても崇敬され、橘神社では筆供養も行われている。
エピソード
延暦23年(804)、橘逸勢は遣唐使の留学生として海を渡った。この使節には空海や最澄も加わっており、日本の宗教史・文化史を大きく動かす人々が同じ船団で唐を目指していたことになる。逸勢は唐で中国の学問や書を学び、大同元年(806)に帰国した。後世の伝記には、語学に苦心したため琴や書へ学びの中心を移したという話や、唐の文人・柳宗元に師事したという話も見える。ただし、これらを裏付ける同時代史料は乏しく、留学中の具体的な修学内容には伝承が重なっている。
それでも逸勢が能書家として高く評価されたことは確かである。平安時代初期には唐風の書が尊ばれ、逸勢は後世、嵯峨天皇・空海とともに「三筆」と呼ばれるようになった。宮内庁に伝わる『伊都内親王願文』は逸勢の筆と伝承され、行書と草書を交えた自在な筆致で名高い。ただし、現在は逸勢の真筆と確定する作品はなく、この願文も伝称筆者として扱われている。逸勢の書名は、確実な作品の多さというより、平安初期を代表する文化人として積み重ねられた評価によって形成されたのである。
出典・参考:『日本後紀』、京都市「橘逸勢邸址」、文化遺産オンライン「伊都内親王願文」
承和9年(842)、嵯峨上皇が崩御すると、朝廷では皇位継承をめぐる大事件が起こった。伴健岑が、橘逸勢らとともに皇太子・恒貞親王を東国へ移し、謀反を企てていると密告されたのである。逸勢は捕らえられて尋問を受け、嫌疑を否認した。しかし罪人とされ、橘氏の姓を奪われて「非人」の姓を与えられたうえ、伊豆国への流罪が決定した。この事件によって恒貞親王も皇太子の地位を廃され、藤原良房らの政治的立場が強まった。
逸勢は高齢で病を抱えていたとされ、護送の途中、遠江国板築駅付近で亡くなった。娘が父を追って旅に同行し、亡骸を葬って供養したという伝承も残る。事件から8年後の嘉祥3年(850)、逸勢は赦免されて正五位下を追贈され、さらに仁寿3年(853)には従四位下を贈られた。これは朝廷が判決そのものを公式に誤りと認めたことを意味しないが、非業の死を遂げた逸勢の霊を慰めようとする動きと結びついた。遠江には逸勢を祀る橘神社が成立し、娘の孝行を含む悲劇的な物語とともに信仰が伝えられている。
出典・参考:『続日本後紀』、京都市「橘逸勢邸址」、袋井市立図書館「御霊信仰と袋井」
平安時代には、政争によって失脚し、恨みを抱いたまま亡くなった人物の霊が疫病や災害を起こすという御霊信仰が広まった。橘逸勢もその一人とされた。貞観5年(863)、都に疫病が流行すると、朝廷は神泉苑で御霊会を催した。『日本三代実録』には、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂という六柱の御霊が祀られたと記される。ここでいう「観察使」は藤原仲成を指すとみられる。逸勢の霊は、災いを及ぼす存在として恐れられる一方、祭祀によって都を守る神へと転じていった。
逸勢はのちに京都の上御霊神社や下御霊神社などの祭神となった。さらに「三筆」の一人という評価が定着すると、御霊としての性格に能書家としての性格が重なり、書道上達を守護する神としても信仰されるようになった。これは、生前の逸勢が自ら書道神を称したという意味ではない。政治事件の犠牲者を慰める御霊信仰と、歴史上の名筆を顕彰する文化的記憶とが、長い時間をかけて結びついたものである。
出典・参考:『日本三代実録』、京都市「都市史・神泉苑」、神泉苑公式サイト、ならまち御霊神社「御由緒」
ご神徳
別称・異称
きつだいぶ
その他
祀られている主な神社
上御霊神社
(京都府上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)
下御霊神社
(京都府上京区新烏丸通丸太町下る信富町324)
御霊神社
(奈良県奈良市薬師堂町24)
御靈神社
(茨城県笠間市南吉原696番地)
御靈神社
(群馬県前橋市粕川町女渕1174番地1)
