加藤清正
かとうきよまさ
- 歴史的人物
- 男神・男性

表記なし(パブリック・ドメイン)
祭神ランキング246位
- 大名
安土桃山~江戸 [1562年~1611年]
加藤清正とは?
加藤清正(1562-1611)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。父は加藤清忠、母は伊都。妻は山崎方家の娘・山崎氏。父が死去したあとは母と供に津島に移り住んだ。1573年、当時近江長浜城主になったばかりの秀吉のもとへ、小姓として仕えた。幼いころから体つきにも恵まれ、知恵もあり、武芸も優秀だったため、秀吉の妻のおねから非常に可愛がられた。1576年元服し、170石を与えられた。その後鳥取城攻めを皮切りに備中冠山城攻め、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いなどに参加する。賤ケ岳では、太刀や槍を片手に敵の柴田勝家の軍勢に突撃し、秀吉から「賤ケ岳の七本槍」の1人として称賛された。1586年からの九州征伐にも参加し、肥後北半国195000石を与えられ熊本城を居城とし、28歳にして大出世を果たす。1592年には文禄の役で朝鮮外征。22800を率いて京城、威鏡道、兀良哈を平定し、不敗の将として鬼上官と呼ばれた。1598年に秀吉が死去すると徳川家康に接近し、家康の養女を継室として迎えた。1600年の関ヶ原の戦いの際には、自国の肥後におり九州で黒田官兵衛とともに家康の東軍に協力した。1611年、家康と豊臣秀頼らの会見を取り持ち和解を斡旋したが、帰国途中の船内で高熱を出し、6月24日に熊本城で死去した。享年50歳であった。 熊本城の敷地内にある加藤神社・八代氏鏡町貝洲にある貝洲加藤神社では築城の名手である清正を祀り、土木工事・干拓工事などにご利益があるといわれている。また、明治神宮には清正が自ら掘ったという伝承の残る「清正井」がある。
ご神徳
別称・異称
清正公さんせいしょうこうさん
その他
祀られている主な神社
加藤神社
(熊本県中央区本丸2-1)
江別神社
(北海道江別市萩ケ岡1番地1)
貝洲加藤神社
(熊本県八代市鏡町貝洲699)
清正神社
(山梨県早川町雨畑787)
清正神社
(高知県仁淀川町別枝1361番)
