伊予親王
いよしんのう
- 歴史的人物
- 男神・男性

玉蘭斎貞秀(神佛図會)
祭神ランキング202位
- 皇族
平安 [783年~807年]
伊予親王とは?
伊予親王(生年不詳-807)は平安時代初期の皇族。第50代桓武天皇の皇子で、母は藤原吉子。延暦11年(792)に元服して四品に叙され、その後三品、式部卿、中務卿、大宰帥などを歴任した。管弦にも優れていたとされ、父の桓武天皇から重用された。
桓武天皇の崩御後、異母兄の平城天皇が即位すると状況は一変する。大同2年(807)、藤原宗成が伊予親王に謀反を勧め、親王はそのことを朝廷へ報告した。しかし宗成は取り調べを受けると、逆に伊予親王こそ謀反の首謀者であると供述したため、親王は母の藤原吉子とともに謀反の疑いをかけられた。これが伊予親王の変である。
伊予親王と吉子は大和国の川原寺に幽閉され、母子は無実を訴えたが認められなかった。親王は皇族としての地位を廃され、母子は絶食したのち毒を飲んで自害した。事件には当時の朝廷内部の政治的対立が背景にあったと考えられており、伊予親王が実際に謀反を企てていたことを裏付ける確かな証拠はない。
母子の死後、その非業の死は人々に恐れられ、伊予親王と藤原吉子は災厄をもたらす御霊として意識されるようになった。弘仁14年(823)には淳和天皇によって伊予親王の位号が復され、子女も本来の身分に戻された。さらに承和3年(836)には伊予親王に一品、藤原吉子に従二位が追贈され、母子の名誉回復が進められた。
平安時代には、政治的な争いや冤罪などによって非業の死を遂げた人物の霊が疫病や災害を引き起こすと考え、その霊を神として祀ることで鎮めようとする御霊信仰が広まった。貞観5年(863)には京都の神泉苑で御霊会が行われ、伊予親王と藤原吉子は、崇道天皇、藤原夫人、橘逸勢、文室宮田麻呂とともに六所御霊として祀られた。伊予親王はこうした平安時代の御霊信仰を代表する人物の一人となった。
この神泉苑御霊会は、疫病を御霊の働きとして鎮めようとした国家的な祭祀として知られ、後世の京都における御霊会の展開にも大きな影響を与えた。祇園御霊会もこうした御霊信仰の流れの中で成立したが、神泉苑御霊会をそのまま祇園祭の直接の原型とするのは正確ではない。
伊予親王は現在も母の藤原吉子とともに御霊として祀られている。京都市の上桂御霊神社では母子を祭神として祀り、下御霊神社でも伊予親王と藤原吉子が祭神に数えられる。また奈良市の御霊神社でも伊予親王をはじめとする御霊が祀られている。
エピソード
大同2年(807)、藤原宗成という人物が伊予親王に謀反を勧めたとされる。親王はこれに応じず、宗成の言動を朝廷へ報告した。しかし取り調べを受けた宗成は、伊予親王こそ謀反の首謀者であると供述した。親王は母の藤原吉子とともに捕らえられ、大和国の川原寺へ幽閉された。
当時、平城天皇の周囲では藤原氏内部の対立や皇位継承をめぐる緊張が高まっていた。伊予親王は桓武天皇の皇子として一定の政治的地位を持ち、中務卿や大宰帥などを務めていたため、その存在が政争と結び付けられた可能性がある。母の吉子も藤原南家の出身であり、母子を排除しようとする政治的な動きが事件の背景にあったと考えられている。
伊予親王と吉子は飲食を断ち、最後には毒を飲んで亡くなった。事件の詳しい経緯は後世の史料にも異同があり、宗成の証言が完全な虚偽だったと実証することは難しい。しかし、朝廷がのちに位号を復し、追贈を行ったことからも、母子への処分が不当であったと認識されるようになったことが分かる。伊予親王の変は、平安時代初期の皇位継承と藤原氏の政争が生んだ悲劇であった。
出典・参考:『日本後紀』大同2年条、『類聚国史』、森田悌『日本後紀』講談社学術文庫
伊予親王と母の藤原吉子が幽閉された川原寺は、飛鳥時代に建立された由緒ある寺院であった。母子はそこで謀反の嫌疑を受け、親王の位を奪われた。弁明が認められないまま追い詰められた二人は、大同2年11月、同じ場所で毒を飲んで亡くなったと伝えられている。
親王だけでなく母もともに処罰された点は、この事件の過酷さを示している。吉子は桓武天皇の夫人として伊予親王を生み、親王の政治的地位を支える存在であった。そのため、母子は死後も一組の御霊として祀られることが多く、京都の上桂御霊神社や下御霊神社などで鎮魂の対象となった。
弘仁14年(823)、淳和天皇の時代に伊予親王の位号が復され、没収されていた家の財産も子女へ返還された。承和3年(836)には一品が追贈され、母の吉子にも従二位が贈られた。これは母子の死から約30年後の名誉回復である。伊予親王の祭祀は、不当に処罰された皇族をただ恐れて鎮めるだけでなく、朝廷が過去の処分を改め、その尊厳を取り戻そうとした営みでもあった。
出典・参考:『日本後紀』大同2年条・弘仁14年条、『続日本後紀』承和3年条、京都市観光協会「下御霊神社」
平安時代には、疫病や災害を、政治的に失脚して非業の死を遂げた人物の怨霊によるものと考える御霊信仰が広がった。伊予親王と藤原吉子も、不当な処罰によって亡くなった皇族とその母として、強い霊威を持つ御霊とみなされた。
貞観5年(863)、朝廷は京都の神泉苑で御霊会を開き、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六所御霊を祀った。僧侶による読経や雅楽、舞などが行われ、苑内は一般の人々にも開放された。伊予親王と母は、疫病を引き起こす恐ろしい霊としてだけでなく、丁重に祀れば都を守る神へ転じる存在として祭祀されたのである。
神泉苑の御霊会は、平安京における御霊信仰の展開を示す重要な祭礼である。後世の祇園御霊会とも共通する背景を持つが、これをそのまま祇園祭の直接的な開始と断定することはできない。下御霊神社では伊予親王と藤原吉子を含む八所御霊が祀られ、現在まで疫病除けや災厄除けの信仰を集めている。冤罪によって命を奪われた親王は、鎮められる怨霊から人々を災いから守る御霊神へ変化したのである。
出典・参考:『日本三代実録』貞観5年5月20日条、京都市観光協会「下御霊神社」、京都市歴史資料館『平安京の御霊会』
ご神徳
ご神徳は不明です。
祀られている主な神社
下御霊神社
(京都府上京区新烏丸通丸太町下る信富町324)
藤森神社
(京都府伏見区深草鳥居崎町609)
御霊神社
(奈良県奈良市薬師堂町24)
御靈神社
(群馬県前橋市粕川町女渕1174番地1)
御霊神社
(埼玉県羽生市上岩瀬632)
