安閑天皇(広国押建金日命)
あんかんてんのう(ひろくにおしたけかなひのみこと)
- 神話・伝説
- 男神・男性

忠孝之日本社(輝く皇国 : 歴代天皇御尊影と御陵及二千六百年史錦絵輯)
祭神ランキング99位
安閑天皇(広国押建金日命)とは?
安閑天皇は記紀神話に登場する男神で、第27代天皇である。古事記では広国押建金日命、日本書紀では広国押武金日天皇と記される。継体天皇と尾張連草香の娘・目子媛の間に生まれ、日本書紀では勾大兄皇子と称した。
幼い頃から器量に優れ、武勇に秀で、寛大な性格であったと日本書紀に伝えられている。継体天皇の後を継いで即位し、大和国の勾金橋宮で政務を行った。在位期間は短かったが、その治世では各地に多数の屯倉が設置されたことが日本書紀に詳しく記されている。
特に武蔵国造の地位をめぐって笠原直使主と同族の小杵が争った際には、使主が朝廷へ助けを求め、安閑天皇側が使主を国造とした。その後、使主は横渟、橘花、多氷、倉樔の四か所を屯倉として朝廷へ献上したとされる。このほか各地の豪族から屯倉の献上が相次ぎ、朝廷による地方支配や財政基盤の強化につながったと考えられている。また屯倉を守衛する犬養部の設置・整備も安閑天皇の時代と深く関係している。
皇后は仁賢天皇の皇女・春日山田皇女で、このほか複数の妃がいたことが記紀に記されている。記紀には安閑天皇の皇子女は記されておらず、崩御後は弟の宣化天皇が即位した。一方、後世の系図史料である『本朝皇胤紹運録』には子として豊彦王が記されており、皇子女については史料によって伝承に違いが見られる。
安閑天皇は後世の神仏習合の中で修験道の蔵王権現と結びつけられるようになった。このため明治時代の神仏分離に際し、それまで蔵王権現を祀っていた神社の祭神を安閑天皇とした例が各地に見られる。これは古事記や日本書紀に記された安閑天皇の事績とは別に、後世の神仏習合によって形成された信仰である。
広国押建金日命は波宇志別神社(秋田県横手市)、日野神社(福井県越前市)をはじめ、高屋神社(大阪府羽曳野市)や安閑神社(滋賀県高島市)など各地の神社で祀られている。特に旧来の蔵王権現信仰と関係する神社で、安閑天皇を祭神として祀る例が見られる。
エピソード
安閑天皇は、継体天皇と尾張連草香《おわりのむらじくさか》の娘・目子媛《めのこひめ》の間に生まれた皇子である。即位前は勾大兄皇子《まがりのおおえのみこ》と称した。
『古事記』では広国押建金日命、《日本書紀》では広国押武金日天皇と記される。「安閑天皇」という名は、後世に贈られた漢風諡号《かんぷうしごう》である。
継体天皇の崩御後に即位し、大和国の勾金橋宮《まがりのかなはしのみや》に都を置いた。現在の奈良県橿原市曲川町付近にあったと考えられている。皇后には仁賢天皇の皇女である春日山田皇女を立てた。
ただし、継体天皇の崩御年については『日本書紀』自身が異なる伝承を記しており、安閑天皇の即位年や在位期間にも不明な点がある。『日本書紀』の安閑天皇紀は二年間と短いが、その間には全国各地への屯倉設置など、朝廷の地方支配に関する記事が集中している。
安閑天皇には皇子女がいなかったため、崩御後は同母弟の宣化天皇が皇位を継いだ。その後は異母弟の欽明天皇が即位し、継体天皇の皇統が受け継がれていった。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』継体天皇紀・安閑天皇紀
安閑天皇の治世を特徴づけるのが、全国各地への屯倉《みやけ》の設置である。『日本書紀』には、筑紫、豊国、火国、播磨、備後、安芸、阿波、紀伊、丹波、近江、尾張、上毛野など、広い地域に屯倉が置かれたことが記されている。
屯倉は、朝廷が直接管理する土地や施設であり、そこで得られた稲や産物を納める倉庫と、それを管理する人々を含む仕組みであった。単なる穀物倉庫ではなく、地方における朝廷の経済的・政治的な拠点でもあった。
安閑天皇紀では、皇后や妃のために土地を求めたこと、地方豪族が自らの過失を償うために屯倉を献上したこと、国造の争いを裁定した謝礼として屯倉が置かれたことなど、設置に至る経緯も記されている。これらの伝承からは、朝廷と地方豪族との関係が、土地や倉を通じて再編されていく様子がうかがえる。
安閑天皇の在位は短かったが、『日本書紀』は多数の屯倉が置かれた時代として描いている。このため安閑天皇は、朝廷の財政基盤を整え、地方支配を強めた天皇として位置づけられている。
出典・参考:『日本書紀』安閑天皇紀、『国史大辞典』「屯倉」
『日本書紀』によると、安閑天皇元年、武蔵国造《むさしのくにのみやつこ》の地位をめぐり、笠原直使主《かさはらのあたいおみ》と同族の小杵《おき》が争った。争いは長年に及び、小杵は上毛野君小熊《かみつけのきみおくま》に助けを求め、使主を殺そうとした。
危険を察した使主は都へ逃れ、朝廷に事情を訴えた。安閑天皇の朝廷は使主を武蔵国造と定め、小杵を処罰した。国造の地位を認められた使主は感謝し、横渟《よこぬ》、橘花《たちばな》、多氷《おおひ》、倉樔《くらす》の四か所を屯倉として朝廷へ献上した。
この伝承は、地方豪族内部の継承争いへ朝廷が介入し、その裁定を通じて東国に直轄地を獲得したことを示している。安閑天皇が争いを解決した結果、武蔵国造は朝廷の支配下へ組み込まれ、武蔵国内に朝廷の経済的な拠点が置かれたのである。
四つの屯倉のうち、橘花は現在の川崎市や横浜市周辺、多氷は多摩地域、倉樔は横浜市南部、横渟は埼玉県北部付近に比定する説がある。安閑天皇紀の記事は、古代の武蔵国と大和政権の関係を伝える重要な記録となっている。
出典・参考:『日本書紀』安閑天皇紀、品川区『品川区史』「武蔵国造の内訌」
安閑天皇は、後世の神仏習合において修験道の本尊である蔵王権現と同一視された。記紀には安閑天皇と蔵王権現を結びつける記述がなく、なぜ同一視されたのかを明確に示す史料も乏しいが、各地の蔵王権現社で安閑天皇を神体とする信仰が広がった。
明治時代に神仏分離が行われると、仏教的な「権現」の名称や祭神を改める必要が生じた。このため、それまで蔵王権現を祀っていた神社の中には、同一神とされた安閑天皇を正式な祭神とする社が現れた。安閑天皇が生前に直接関係した地域以外でも広く祀られている背景には、この信仰の変化がある。
大阪府羽曳野市の高屋神社では、ニギハヤヒと安閑天皇を祀っている。近くには宮内庁が安閑天皇陵に治定する古市高屋丘陵《ふるちのたかやのおかのみささぎ》があり、高屋築山古墳と呼ばれる。墳丘長約122メートルの前方後円墳である。
滋賀県高島市の安閑神社や、各地の蔵王神社、金峯神社、御嶽神社などにも、安閑天皇を祭神とする例がある。天皇としての事績だけでは説明できない祭神分布は、蔵王権現との習合と神仏分離を経て形成されたのである。
出典・参考:『古事記』、『日本書紀』、神社明細帳、高屋神社由緒、宮内庁「安閑天皇 古市高屋丘陵」、羽曳野市「安閑天皇陵古墳」
出典文献
古事記
日本書紀
ご神徳
ご神徳は不明です。
別称・異称
ひろくにおしたけかなひのみこと
古事記
広国押武金日天皇ひろくにおしたけかなひのすめらみこと
日本書紀
祀られている主な神社
武蔵御嶽神社
(東京都青梅市御岳山176)
保呂羽山波宇志別神社
(秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山1-1)
金峯神社
(山形県鶴岡市青龍寺字金峯1)
藏皇神社
(福島県いわき市勿来町酒井出藏142)
見多気神社
(富山県高岡市答野島11番地)
