名和神社 - 神社ファン

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名和神社

なわじんじゃ

鳥取県西伯郡大山町名和556

😞 🙁 😐 🙂 😄

鳥取県西伯郡大山町名和556

拝殿

Flow in edgewise(wikipedia CC 表示 3.0)

かんたんご利益

  • 勝負
名和神社には

「勝負系」

のご利益があります。
※かんたんご利益はご利益をジャンル毎に分けわかりやすく表示したものです。
※バイカラー(2色)になっているご利益は摂末社やお守り、御神木など本殿以外のご利益です。
※光っているご利益は特に有名なご利益です。

ご利益

武運長久

御祭神

主祭神

忠臣名和長年公 ちゅうしんなわながとしこう

合祀

一族四十二名 いちぞくよんじゅうにめい

神社系統

この神社の主な系統は

「不明(1柱)」

です。
※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。

由緒・歴史 | 特徴

名和神社は鳥取県西伯郡大山町に鎮座する神社。御祭神は忠臣名和長年公、一族四十二名の2柱をまつる。
社格は旧別格官幣社、現在は別表神社。
名和氏は村上源氏の流れを汲むと伝えられ、鎌倉時代中頃、名和長年の曽祖父・行明が但馬から伯耆へ移り、汗入郡長田に居を構えた。父・行高の代に名和庄へ移り、名和氏を称した。長年は当初、長高と名乗っていた。
元弘3年(1333)閏2月、隠岐へ配流されていた後醍醐天皇が島を脱出して伯耆へ渡ると、長高は天皇を迎え、一族郎党とともに船上山へ移った。船上山には後醍醐天皇の行宮が置かれ、長高らは追討に来た鎌倉幕府軍と戦った。
後醍醐天皇は長高を長年と改名させ、左衛門尉、伯耆守に任じた。同年5月、後醍醐天皇が京都へ戻る際には、名和長年と一族が警護にあたった。建武元年(1334)には因幡・伯耆の守護となり、建武政権のもとで雑訴決断所などの職務を務めた。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇の政権から離反すると、名和長年は天皇方として戦った。延元元年(1336)6月、京都で足利方の軍勢と戦い、長年は戦死した。一族の多くも相前後して戦死した。
承応・明暦年間(1652~1657)、地域の崇敬者が名和村にあった名和氏屋敷跡に小祠を建て、名和長年を祀った。祠は氏殿権現と呼ばれた。
延宝5年(1677)、鳥取藩主池田光仲は家臣の大窪友尚と協議し、旧社地から約200m南にある日吉坂の山王権現の社地に社殿を造営して氏殿権現を奉遷した。天保6年(1835)には名和氏屋敷跡に「名和神君之碑」が建立され、安政5年(1858)には鳥取藩主池田慶徳の命を受けた正墻薫によって「故伯耆守名和君碑」が建立された。
明治6年(1873)、県社に列せられて氏殿神社と改称した。明治11年(1878)には別格官幣社に列せられ、名和神社と改称した。
明治16年(1883)4月10日、名和長年の時代に米蔵があったと伝えられる長者原に新社殿が完成し、現在地へ奉遷された。昭和7年(1932)から昭和10年(1935)にかけて大規模な造営が行われ、現在の社殿が整備された。昭和10年(1935)には名和長年戦没600年祭、昭和61年(1986)には戦没650年祭が斎行された。
境内には本殿、拝殿、神門、鳥居、太鼓楼などが建つ。鳥居の扁額は三条実美の筆で、境内の標柱には東郷平八郎の書が残る。太鼓楼には、江戸時代に八頭町妻鹿野の大欅から作られ、鳥取藩の御用太鼓として使用された大太鼓が納められている。
名和神社に伝来する「名和神社文書」7通は、令和6年(2024)1月19日に鳥取県指定有形文化財に指定された。後醍醐天皇に関係する文書のほか、豊臣秀吉朱印状、小早川隆景感状などが含まれている。
参道周辺には約400本のソメイヨシノが植えられている。例大祭は名和長年が京都で戦死した命日にあたる5月7日に斎行される。
  • 別表神社
  • 別格官幣社
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神社詳細

公式URL

摂末社・境内社

末社 臣神社
長年公の従臣二百余名
境外摂社 氏殿神社
名和公

例祭

例祭 5月7日

文化財

情報募集

建築

本殿 流造

神紋

情報募集

出典
公式サイト
https://www.nawajinja.or.jp/
Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE
[書籍]ご利益めぐり全国神社誌
巖谷小波・神社神徳研究会、展望社、1997年