折口信夫・藤井春洋父子の歌碑 | 気多大社 - 神社ファン

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気多大社

けたたいしゃ

石川県羽咋市寺家町ク1

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折口信夫・藤井春洋父子の歌碑

更新日:2026年9月18日

気多大社と能登に残る二人の足跡

気多大社の境内には、国文学者・民俗学者・歌人として知られる折口信夫(おりくちしのぶ)と、その門弟で養子となった藤井春洋(ふじいはるみ)の歌碑が並んで建っています。向かって右側が折口信夫、左側が藤井春洋の歌碑です。
気多大社 折口信夫・藤井春洋父子の歌碑
折口信夫は「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で歌人としても活躍した人物です。能登との関わりが深くなるきっかけの一つとなったのが、羽咋の一ノ宮に生まれた藤井春洋でした。春洋は國學院大學で折口に学び、のちに折口の養子となっています。
折口が初めて口能登を訪れたのは1927年(昭和2)6月です。春洋ら学生を伴って羽咋を訪れ、気多大社にも参拝しました。このとき折口が詠んだ歌が、現在の歌碑に刻まれています。

「気多のむら 若葉くろずむ 時に来て 遠海原の 音を聴きをり」

初夏を迎え、若葉が濃くなった気多の地と、その向こうに広がる日本海を詠んだ歌です。折口が実際にこの地を訪れた際の風景と印象を現在に伝えています。
隣に建つ藤井春洋の歌碑には、1944年(昭和19)に詠まれた歌が刻まれています。

「春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて おもかげに師を さびしまむとす」

春洋が金沢に駐屯していた際、面会した師・折口を思って詠んだものと伝えられています。春洋はその後出征し、1945年(昭和20)3月、硫黄島方面で38歳の生涯を終えました。
二人の歌碑は、もともと現在の場所に建てられたものではありません。1958年(昭和33)11月23日に旧一ノ宮駅に建立され、その後、1968年(昭和43)8月に気多大社境内へ移されました。羽咋出身の春洋と、春洋を通じて能登との深い縁を結んだ折口。その二人の歌碑が並んで気多大社に残されています。
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気多大社 折口信夫・藤井春洋父子の歌碑の案内板
また、折口信夫の碑はこれだけではありません。気多大社の社叢「入らずの森」の裏手、池のほとりには折口信夫の句碑もあります。

「くわっこうの なく村すぎて 山の池」

この句は1946年(昭和21)4月、折口が大社焼の小皿に書いた句をもとにしたもので、折口の没後10年にあたる1963年(昭和38)9月1日に建立されました。
気多大社 折口信夫の歌碑
気多大社周辺には、折口信夫と藤井春洋の墓をはじめ、二人にゆかりのある場所が現在も複数残されています。境内の父子歌碑と社叢裏の句碑は、折口信夫と能登、そして春洋との深い結びつきを現在に伝える見どころです。

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