有名度
前頭和我神社
わがじんじゃ
宮城県栗原市築館字萩沢木戸122
宮城県栗原市築館字萩沢木戸122

かんたんご利益
御祭神
神社系統
この神社の主な系統は
「不明(1柱)」
です。※系統は御祭神や由緒による神社の分類です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
※主な系統は神社の主要となる系統で主祭神や神社名に関わる系統です。
由緒・歴史 | 特徴
和我神社は宮城県栗原市に鎮座する神社。御祭神は武烈天皇の1柱をまつる。
社格は式内社であり、旧村社。
社伝では、小泊瀬稚鷦鷯命、すなわち後の武烈天皇が東北地方へ行幸した際、海辺を経て牡鹿・桃生を通り、現在の萩沢加倉大屋敷城戸に上陸したと伝えられている。小泊瀬稚鷦鷯命は当地にしばらく滞在した後、さらに北へ向かったという。このとき使用した舟をつないだとされる老杉があり、樹齢1500年と称されたが、明治30年(1897)に枯損した。これらの伝承は『封内風土記』や郡誌にも記されたとされる。
小泊瀬稚鷦鷯命に従った人物として睦氏の名が伝えられている。その後裔は久我氏と和我氏の2姓に分かれ、久我氏は旧姫松村に居住した。小泊瀬稚鷦鷯命が崩御すると、久我氏は陵を祀ったという。一方、和我氏は城戸に居住し、帝を祀る祠を設けたと伝えられている。和我神社の社名についても、この和我氏に関する伝承が残されている。
奈良時代の天平9年(737)には、『続日本紀』に和我君計安塁の名がみえる。和我神社碑には、和我君計安塁が東征の際に夷敵を鎮めたことが記されている。
平安時代に編纂された『延喜式』神名帳には、陸奥国栗原郡の神社として「和我神社」が記載された。栗原郡には7座の式内社が記録されており、和我神社はその一つに数えられる。現在の栗原市築館萩沢木戸に鎮座する当社が、この式内社にあたるとされている。
近世まで和我神社は「新山権現」とも称された。
明治8年(1875)5月、和我神社は村社に列した。明治35年(1902)には本殿を改築し、明治40年(1907)3月に幣帛供進社へ指定された。
昭和11年(1936)には拝殿が修築された。翌昭和12年(1937)6月20日には和我神社碑が建立され、武烈天皇に関する伝承や和我氏の由緒、『延喜式』神名帳への記載、明治以降の沿革などが記されている。
現在の本殿は明治35年(1902)に改築された建物で、入母屋造の屋根正面に千鳥破風を設け、正面に向拝を備える。境内には拝殿や神楽殿も建つ。
例祭は9月8日・9日に行われる。
社格は式内社であり、旧村社。
社伝では、小泊瀬稚鷦鷯命、すなわち後の武烈天皇が東北地方へ行幸した際、海辺を経て牡鹿・桃生を通り、現在の萩沢加倉大屋敷城戸に上陸したと伝えられている。小泊瀬稚鷦鷯命は当地にしばらく滞在した後、さらに北へ向かったという。このとき使用した舟をつないだとされる老杉があり、樹齢1500年と称されたが、明治30年(1897)に枯損した。これらの伝承は『封内風土記』や郡誌にも記されたとされる。
小泊瀬稚鷦鷯命に従った人物として睦氏の名が伝えられている。その後裔は久我氏と和我氏の2姓に分かれ、久我氏は旧姫松村に居住した。小泊瀬稚鷦鷯命が崩御すると、久我氏は陵を祀ったという。一方、和我氏は城戸に居住し、帝を祀る祠を設けたと伝えられている。和我神社の社名についても、この和我氏に関する伝承が残されている。
奈良時代の天平9年(737)には、『続日本紀』に和我君計安塁の名がみえる。和我神社碑には、和我君計安塁が東征の際に夷敵を鎮めたことが記されている。
平安時代に編纂された『延喜式』神名帳には、陸奥国栗原郡の神社として「和我神社」が記載された。栗原郡には7座の式内社が記録されており、和我神社はその一つに数えられる。現在の栗原市築館萩沢木戸に鎮座する当社が、この式内社にあたるとされている。
近世まで和我神社は「新山権現」とも称された。
明治8年(1875)5月、和我神社は村社に列した。明治35年(1902)には本殿を改築し、明治40年(1907)3月に幣帛供進社へ指定された。
昭和11年(1936)には拝殿が修築された。翌昭和12年(1937)6月20日には和我神社碑が建立され、武烈天皇に関する伝承や和我氏の由緒、『延喜式』神名帳への記載、明治以降の沿革などが記されている。
現在の本殿は明治35年(1902)に改築された建物で、入母屋造の屋根正面に千鳥破風を設け、正面に向拝を備える。境内には拝殿や神楽殿も建つ。
例祭は9月8日・9日に行われる。
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出典
宮城県神社庁
https://miyagi-jinjacho.or.jp/
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