里見忠義
さとみただよし
- 歴史的人物
- 男神・男性

祭神ランキング1527位
- 大名
安土桃山~江戸 [1594年~1622年]
里見忠義とは?
里見忠義(1594-1622)は江戸時代の武士。里見義康の子。安房国(千葉県)館山藩主・里見家の長男として生まれる。父の死去に伴い10歳で家督を継ぎ藩主となる。幼少の藩主を、叔父の正木時茂や家老の堀江頼忠など一族の重臣たちが補佐した。元服は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の前で行われ、忠の字を賜り忠義と名乗り、安房守に任命された。1611年には、老中・大久保忠隣の孫娘を正室に迎える。しかし、忠隣が権力闘争に敗れ改易処分となり、忠義もこれに連座し処分を受け、伯耆国(鳥取県)倉吉へ国替えとなった。1617年に池田光政が入封し、因幡(鳥取県)、伯耆両国を治めることになったため、倉吉郊外の下田中村へ移され100人扶持となった。次いで堀村へ移され、病のため29歳で死去。嗣子のない里見家は改易となった。倉吉へ移ってからの忠義は、寺社の再建と保護に尽力している。北条八幡宮、山長神社の修復、北野神社の再建、勝宿禰神社内・稲荷社の創建などを行った。 忠義は、終焉の地となった山里神社(鳥取県倉吉市)近くの「里見安房守忠義主従之廟」で殉死した家臣8人と共にまつられ、主従の供養のため地元では「せきがね里見まつり」が毎年開催されている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
