来島又兵衛
きじままたべえ
- 歴史的人物
- 男神・男性

石田渓岳 (パブリック・ドメイン)
祭神ランキング1527位
- 藩士(長州藩)
江戸 [1817年~1864年]
来島又兵衛とは?
来島又兵衛(1817-1864)は、幕末の長州藩士。尊王攘夷派で、遊撃隊総督だった。長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男。1836年に来島政常(又兵衛)の婿養子となった。柳川藩の大石神影流の創始者・大石進に剣術を学び、さらに江戸で修業を積んで剣術の達人となった。算術にも優れていたようで吉田松陰から「来島又兵衛は胆力人に過ぎ、又精算密思あり」と評されている。1848年に家督を継ぎ、1851年に養父が死去したため来島家累代の名を継承し又兵衛と名乗った。その間も藩世子の駕籠奉行など藩の要職を歴任し身を立てる。1863年、下関で攘夷の戦が起こると馬関総奉行手元役として参陣。さらに藩の命で猟師を集めた狙撃隊80名を編成し上洛、禁裏守衛にあたった。政変で攘夷派が追放されると萩に戻り、高杉晋作の奇兵隊創設に感化され、又兵衛も遊撃隊を組織した。1864年、島津久光の暗殺を企てたが失敗。その後再び上洛し禁門の変が起こると、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑と陣羽織という風貌で遊撃隊600人を率いて戦った。薩摩藩兵の川路利良の狙撃で胸を打ち抜かれ、甥の喜多村武七の介錯で自害した。享年48。 山口県山口市宮野下にある山口縣護國神社では、松陰や晋作らとともに又兵衛が御祭神として祀られている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
祀られている主な神社
山口縣護國神社
(山口県山口市平野二丁目2番1号)
