薬丸兼将
やくまるかねまさ
- 歴史的人物
- 男神・男性

祭神ランキング1527位
- 武人
戦国 [~1576年]
薬丸兼将とは?
薬丸兼将(1517-1576)は、戦国時代の武将。出雲守。薬丸自顕流の源流である伴氏家伝の野太刀術の伝承宗家。肝付兼続やその子らに重臣として仕えた。肝付氏と島津氏の抗争の始まりのエピソードとして、1561年に島津氏の重臣である伊集院忠朗が開いた酒宴に兼続の名代として出席したが、その席で忠朗が兼将に「宴の羹は鶴であるか」と肝付家の家紋の鶴のことを戯れに発言したことで、肝付氏と島津氏の抗争の発端であるという話があるが、この頃には既に抗争は始まっており、後世の創作である。いずれにせよ兼将も兼続に従い島津家との抗争へと身を投じ、一時は鹿児島城下まで攻め入った。1566年、島津貴久の反撃で兼続の居城・高山城が落とされ兼続が死去すると、兼将は兼続の子・良兼に仕え、その後は良兼の弟・兼亮に仕えた。また、1568年には肝付氏の船が通りかかった土佐国浦戸の船を島津の船だと誤認して撃ち掛けた問題で、兼将は長曾我部氏の重臣である江村備後に書面で謝罪している。1574年に肝付氏が島津氏に服属する際は肝付氏の使者となった。1576年、伊藤氏との戦いで戦死。 宮崎県日南市南郷町脇本の八幡神社では兼将を主祭神として祀っており、太鼓を前にかかえ、背に旗指物を負う伝統の踊りが長い間受け継がれている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
祀られている主な神社
八幡神社
(宮崎県日南市南郷町脇本千種ヶ久保3544番)
