北楯利長
きただてとしなが
- 歴史的人物
- 男神・男性

表記なし
祭神ランキング1527位
- 武人
戦国~江戸 [1548年~1625年]
北楯利長とは?
北楯利長(1548-1625)は戦国~江戸時代の武士。出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義光の家臣。通称は大学で、初めは北館と称した。関ヶ原の戦いの後、庄内3郡を領した義光より3千石を与えられ庄内狩川城主となる。この地方は深刻な水不足に悩まされており、利長は10年をかけ綿密な調査を行い、大規模な治水工事を上申する。一部の家臣からの反対を受けるが事業は決定され、利長は責任者に任命された。工事のため集められた人員は7千を越えたといわれ、難工事による事故で死者も出たが、わずか4ヶ月で約10キロに及ぶ堰を完成させた。後年この堰は北楯大堰と呼ばれるようになる。これにより新田開発が進み新たな村が増えていった。最上氏は義光の後継争いの末、1622年に改易となり利長も所領を失うが、庄内藩初代藩主として入封した酒井忠勝に子の助次郎が召し抱えられる。利長も3百石が給与され姓を北楯に改名した。78歳で死去。 利長は北舘神社(山形県東田川郡)で主祭神としてまつられている。北楯大堰の恩恵を受けた多くの人々が、開削の祖である利長を水神としてまつったことに始まる。創建時の狩川の八幡宮境内から現在の狩川城跡に遷座した。
ご神徳
ご神徳は不明です。
別称・異称
北舘水神きただてすいじん
その他
祀られている主な神社
北舘神社
(山形県庄内町狩川字笠山400)
