天武天皇
てんむてんのう
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- 天皇
飛鳥 [~686年]
天武天皇とは?
天武天皇(?-686)は飛鳥時代の第40代天皇。父は第34代舒明天皇、母は第35代皇極天皇で、皇極天皇はのちに重祚して第37代斉明天皇となった。即位前は大海人皇子と呼ばれ、第38代天智天皇となった中大兄皇子の弟にあたる。
天智天皇の治世には皇位継承をめぐる緊張が高まり、大海人皇子は天智天皇10年(671)に皇太子の地位を辞して出家し、妃の鸕野讃良皇女らとともに吉野へ退いた。翌672年、天智天皇の死後に近江朝廷側の動きを察知した大海人皇子は吉野を脱出し、美濃など東国の勢力を集めて挙兵した。これが古代最大の内乱とされる壬申の乱である。大海人皇子側は近江朝廷軍を破り、大友皇子は自害した。
天武天皇2年(673)、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。天皇を中心とする国家体制の整備を進め、684年には豪族を新たな秩序のもとに編成する八色の姓を制定した。また律令制度の整備にも着手し、天武朝に始められた律令編纂事業は、のちの飛鳥浄御原令へとつながっていった。
天武天皇10年(681)には川島皇子・忍壁皇子らに命じて「帝紀」および「上古諸事」を記定させた。これは後世の国史編纂につながる重要な事業であり、その後の編纂を経て、養老4年(720)に舎人親王らによって『日本書紀』が完成した。また飛鳥池遺跡からは天武朝の時期に位置づけられる富本銭が出土しており、この時代に貨幣が鋳造されていたことが明らかになっている。
天武天皇は仏教を保護する一方、伊勢神宮をはじめとする神祇祭祀の整備にも関わり、律令国家における祭祀制度の形成に大きな影響を与えた。686年に崩御し、のちに皇后であった鸕野讃良皇女が第41代持統天皇として即位した。
京都府京都市伏見区の三栖神社では天武天皇が祭神として祀られている。同地には壬申の乱の際、大海人皇子が当地を通過すると村人たちが炬火を掲げて迎えたという伝承があり、現在もその故事にちなむ炬火祭が行われている。天武天皇は古代国家の制度を大きく整えた天皇として、後世にもその事績が伝えられている。
エピソード
天智天皇の崩御後、皇位継承をめぐって大海人皇子と近江朝廷が対立した。『日本書紀』は、大海人皇子が吉野を出て東国へ進み、伊賀・伊勢などで兵を集めて近江へ向かった経過を記す。迹太川の辺では伊勢神宮の方角を拝したという。この記述は、伊勢神宮の祭神である天照大神への祈りと結びつけて解釈されることがあるが、記事自体は神名を記していない。
戦いは瀬田での決戦に及び、大友皇子方は敗北した。大海人皇子は翌673年、飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となる。壬申の乱は、天武天皇の即位に至る政治的背景を伝える一方、伊賀・伊勢の地域勢力が戦いに関わったことを示す記事でもある。
出典・参考:『日本書紀』天武天皇元年条、三重県「壬申の乱と古代の伊賀・伊勢」
天武天皇は、皇女の大来皇女を伊勢神宮に奉仕する斎王に定めた。三重県斎宮歴史博物館によれば、大来皇女は実在が確認できる最初の斎王で、673年に就任し、翌674年に伊勢へ向かった。斎王は、伊勢神宮の祭神である天照大神に仕える未婚の皇女である。
大来皇女の奉仕は、天武朝に伊勢神宮への皇室の祭祀が整えられていく一端を示す。天武天皇の命令が、その後の斎王制度のすべてを一度に定めたとまではいえないが、皇女を伊勢に遣わす祭祀が制度として確認できる早い例である。
出典・参考:『日本書紀』天武天皇2年条、三重県斎宮歴史博物館「斎王エピソード」
『日本書紀』天武天皇10年正月19日条は、天武天皇が畿内と諸国に詔し、天社・地社の神宮を修理させたと記す。天武朝には、地方の神社を整える事業が朝廷の命令として行われたことがうかがえる。
この修理命令は、伊勢神宮への祭祀や斎王の派遣とは別に、各地の神社を国の祭祀秩序に位置づける動きとして注目される。研究では、天武朝の神宮修理を、国司が管理する神税を用い、現地の祭祀奉仕者が実施した政策とみる考えも示されている。ただし、修理の範囲や各地での実施状況を一律に確定できるわけではない。
出典・参考:『日本書紀』天武天皇10年正月19日条、國學院大學大学院紀要「古代『神宮』の造営方針―孝徳朝から天武朝を中心に」
681年、天武天皇は川島皇子や忍壁皇子ら12人に、『帝紀』と『上古諸事』を記定するよう命じた。『日本書紀』天武天皇10年3月17日条に記されたこの命令は、皇室の記録や古い伝承を整理し、記録として確定しようとする事業であった。
この命令は後の国史編纂につながる動きの一つとされるが、天武天皇が『日本書紀』の完成を命じた、という意味ではない。『日本書紀』は天武天皇の皇子である舎人親王らが編纂し、720年に完成した。天武天皇の命令と、後に完成した歴史書の編纂過程を分けて理解する必要がある。
出典・参考:『日本書紀』天武天皇10年3月17日条、宇陀市「日本書紀」、国立公文書館「日本書紀」
684年、天武天皇は真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八つに姓を整理した。奈良県立万葉文化館の解説によれば、氏族を皇室との系譜上の近さなどに基づいて再編し、身分秩序を整える制度であった。
八色の姓は、古くからの氏族名や姓を廃して全員を同じ立場に置く制度ではない。皇室との関係や政治上の序列を整理し、官人の秩序を組み直す仕組みとして機能した。天武天皇が進めた中央集権化を、氏族社会の編成から考える手がかりとなる。
出典・参考:『日本書紀』天武天皇13年10月条、奈良県立万葉文化館「八色の姓」
『日本書紀』天武天皇12年条には、天武天皇が銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるよう命じた記事がある。この銅銭は、飛鳥池遺跡から出土した富本銭にあたると考えられている。遺跡では富本銭の未製品や鋳型なども見つかり、当時の銭貨生産を示す資料となっている。
富本銭は、和同開珎より前に造られた日本最古の鋳造貨幣とされる。天武天皇の銅銭使用の命令は、朝廷が貨幣を政策の対象として扱ったことを示す。ただし、命令が全国でどの程度実行され、銭貨がどれほど流通したかは、命令の記事と考古資料だけでは分けて考える必要がある。
出典・参考:『日本書紀』天武天皇12年4月15日条、国指定文化財等データベース「飛鳥池遺跡出土品」
京都市伏見区の三栖神社は、天武天皇を祭神の一柱として祀る。京都市の案内によれば、神社の創建の詳細は不明だが、例祭の炬火祭は、壬申の乱で近江朝廷との決戦へ向かう大海人皇子が三栖地域を通った際、住民がかがり火を灯して迎えたという伝承にちなむ。
この伝承は、天武天皇が実際に通過したことや神社の創建時期を確定する史料ではない。一方、戦いに向かう皇子を地域の人々が火で迎えたという物語が、後世に天武天皇を祭神として祀る信仰や炬火祭に結びついている。炬火祭は戦後に一時途絶えた後、1989年に再興され、京都市登録無形民俗文化財となっている。
出典・参考:京都市公式観光Navi「三栖神社」
ご神徳
ご神徳は不明です。
別称・異称
あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと
その他
祀られている主な神社
雄琴神社
(栃木県壬生町通町18-58)
藤森神社
(京都府伏見区深草鳥居崎町609)
清見原神社
(大阪府生野区小路2-24-35)
井上神社
(岐阜県関ケ原町松尾字井上389番地)
天武天皇社
(三重県桑名市東鍋屋町89)
