中山忠光
なかやまただみつ
- 歴史的人物
- 男神・男性

月岡芳年(パブリック・ドメイン)
祭神ランキング1527位
- 公家(貴族)
江戸 [1845年~1864年]
中山忠光とは?
中山忠光(1845-1864)は江戸時代末期の公卿。父親は権大納言中山忠能、明治天皇の御生母である中山慶子の実弟であるため、明治天皇から見れば叔父にあたる。侍従として明治天皇が幼少の頃から侍従として仕えていたが、忠光は生来の奔放な性格から官位を棄て名を森俊斎と改め無断で京を脱出し攘夷運動に身を投じていく。忠光は長州藩が英米仏蘭の4か国と引き起こした下関事件に参戦したが、その時に攘夷は無謀であると悟り討幕へと志を変え、吉村寅太郎らとともに尊王討幕派の急先鋒となる天誅組を組織する。時の孝明天皇が譲位祈願のため大和行幸の詔勅が発せられると忠光を首謀とした天誅組は大和の五條代官所に討ち入り、7万石の幕府直轄地を奪い「五條新政府」の樹立を一方的に宣言する。しかし、八月十八日の政変により政情は一変する。天誅組は幕府と朝廷の両方を敵に回す逆賊に貶められる結果となり、京都守護職松平容保は1万を超える軍勢を差し向けて天誅組の討伐を図った。世にいう天誅組の変である。天誅組はこの時ほぼ壊滅したが忠光は長州に逃げ延び、その後幕府の追っ手に暗殺された。 忠光は山口県下関市にある中山神社に祭神として祀られている。中山神社は忠光が暗殺された地に建立された神社であり、境内に忠光の墓所がある。
ご神徳
ご神徳は不明です。
