松平定通
まつだいらさだみち
- 歴史的人物
- 男神・男性

祭神ランキング1527位
- 藩主(松山藩)
江戸 [1805年~1835年]
松平定通とは?
松平定通(1805-1835)は江戸時代後期の人物。松平定国の子。生母不明の子として令君がいるが、男児に恵まれなかったため松平勝善らを養子に取っている。伊予国(現在の愛媛県)松山藩9代藩主・松平定国の五男として生まれるが、10代藩主・定則が早世したため、定通が11代藩主として遺領松山藩15万石を継いだ。定通は松山に藩校を設置するなど、教育の促進を図ったことでも知られる。定通が興した藩校は生徒数の増加に合わせて移築・拡充を繰り返し、1814年に創設された「明教館」の建物は現在でも保存されている。教育・文化の推進はもちろん、殖産興業や倹約厳行に力を入れた政策が評価され、定通は後世「松山藩中興の祖」と仰がれるようになった。しかし定通は生まれつき病弱だったため、30代の若さで脚気に侵されてこの世を去っており、その治世はそれほど長く続いていない。 生前、定通は11代将軍・徳川家斉の名代として日光東照宮の参拝を果たしている。また藩祖の神霊を祀るために「東雲神社」の勧請を行った記録が残るなど、定通の信仰心が垣間見えるエピソードは多い。尚、定通も自身が勧請した東雲神社にて「奇足玉命」の名で祭神として祀られている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
