酒井忠休
さかいただよし
- 歴史的人物
- 男神・男性

祭神ランキング1527位
- 藩主(松山藩)
江戸 [1714年~1787年]
酒井忠休とは?
酒井忠休(1714-1787)は江戸時代の武士。酒井直隆の子で酒井忠崇らの親。出羽国庄内藩(山形県)に生まれる。出羽国松山藩第2代藩主酒井忠予には、嫡男として酒井忠英がいたが、盲目になったことで廃嫡。忠休が養嗣子となり跡を継ぎ、第3代松山藩主となる。忠休は1749年から26年間にわたり江戸幕府で若年寄の職に就き、長年の功から上野国(群馬県)の5千石が加増され松山藩は2万5千石となった。さらに築城が許され、約7年かけ松山城が築かれた。幕府で重要な役に就き石高も増えたが、その間にも藩の財政は悪化。藩士による藩主の忠休を弾劾する口上書が提出される「宝暦事件」が起きている。忠休は忠英の子・忠郷、忠起を養子としたが、2人ともに若くして死去していた。そのため忠休亡き後、実子の忠崇が跡を継いでいる。 忠休は中山神社(山形県酒田市)で祭神としてまつられている。古くから信仰されてきた総鎮守に社殿を造営し、庄内と松山の藩祖酒井忠次と徳川家康の嫡男・徳川信康をまつったことに始まる。中山神社には、祭神として酒井忠恒、忠予も配祀されている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
