錦小路頼徳
にしきこうじよりのり
- 歴史的人物
- 男神・男性

石田渓岳(パブリック・ドメイン)
祭神ランキング1527位
- 公家(貴族)
江戸 [1835年~1864年]
錦小路頼徳とは?
錦小路頼徳(1835-1864)は幕末の公家。文章博士唐橋在久の長男として生まれたが、後に錦小路頼易の養子となる。日米修好通商条約調印を推進する老中堀田正睦に反対する八十八卿列奏上に参加し、以降尊王攘夷派の公家として名を馳せてゆく。幕末に新たに設置された国事寄人の官職につき、孝明天皇の石清水八幡宮行幸にも随従した。しかし、1863年に会津、薩摩などの公武合体を唱える藩が引き起こした八月十八日の政変により失脚し、京を追われ長州に落ち延びた尊王攘夷派の公卿7名に名を連ねる。ただし、本来の公卿は三条実美と三条西季知の2名のみであったので二卿五朝臣とも称される。その後尊王攘夷派の衰退によって国事寄人も廃職となり、参内、他人面会禁止の処分を科せられる。頼徳は桑原頼太郎と変名し長州藩と行動を共にするが、下関滞在中に30歳の若さで病没した。明治となって頼徳の功績は再評価され、正四位の位が贈られている。 頼徳は山口県山口市の赤妻神社に祭神として祀られている。赤妻神社は病没した頼徳の墓所に建立されて神社である。その忠勇果断な性格から長州藩内では信奉者も多く、頼徳の葬儀では長州藩主毛利敬親が喪主を務めている。赤妻神社は錦小路神社とも称されている。
ご神徳
ご神徳は不明です。
別称・異称
桑原頼太郎くわばらよりたろう
その他
