吉弘統幸
よしひろむねゆき
- 歴史的人物
- 男神・男性

表記なし(パブリック・ドメイン)
祭神ランキング1527位
- 武人
安土桃山 [1563年~1600年]
吉弘統幸とは?
吉弘統幸(1564-1600)は豊後国(現在の大分県)屋山城城主吉弘鎮信の子として生まれる。吉弘は鎌倉時代から九州の有力大名大友氏重臣の家柄。大友氏と島津氏が激突した耳川の戦で父鎮信は亡くなり、15歳にして家督を継承する。大友氏はその後豊臣秀吉の家臣となるが、文禄の役の朝鮮出兵では戦場から撤退したとして秀吉の怒りにふれ大友氏は改易となる。統幸は一時期黒田官兵衛に招かれるが、その後立花宗茂に二千石で召しかかえられる。再度の朝鮮出兵となる慶長の役では秀吉からは無双の槍使いと称賛されて朱槍を賜る武功を挙げた。秀吉の死後、石田三成と徳川家康間の対立が激化すると、統幸は旧主君の大友義統と再会し豊後国奪回のために西軍に味方する。戦勝の際には豊後、豊前の二国の安堵を三成から約束され、大いに奮戦するが黒田如水に押されて石垣原の戦で激突する。戦の当初は統幸が優勢に進め黒田勢の武将を打ち破るが、最後は一時世話になっていた黒田側の井上九郎右衛門に打たれて戦死する。しかしこの戦士は黒田家内において武功の少なかった九郎右衛門に花を持たせて自ら死を選んだとも言われている。 統幸は大分県別府市に鎮座する吉弘神社に祭神として祀られている。吉弘神社の地はもともと統幸の墓所であったが、1922年に子孫らによって社殿が創建され神社となった。
ご神徳
ご神徳は不明です。
祀られている主な神社
吉弘神社
(大分県別府市石垣西六丁目6番36号)
